2025年8月3日
今年の大相撲名古屋場所はIGアリーナ(愛知国際アリーナ)のこけら落とし興行として行われ、場所前に全席完売、15日間満員御礼の盛況だった。三日目に行ったが升席がこれまでより3割広くなり座りやすかった。
去年までの会場は愛知県体育館。仕事でもプライベートでも何度も通ったなじみの体育館だった。ネーミングライツで「ドルフィンズアリーナ」という名称になったが、名古屋の人はよく「県体」(けんたい)と呼ぶ。
住所は名古屋市中区二の丸。名古屋城の敷地内にあり、お堀と石垣を眺めながら体育館に向かった。
名古屋場所は1958年から本場所となり、市営の金山体育館が7年間会場だった。記憶にはないが私は乳児の頃に連れて行ってもらったことがあるそうだ。1963年か64年だから横綱大鵬・柏戸の柏鵬時代だろう。館内の暑さから氷柱も用意され「南洋場所」の異名を取った。
1965年から愛知県体育館に移り去年まで使用された。大相撲のみならずバスケットボール、体操等様々な競技の舞台になった。ほかにもサーカスやコンサート、アイスショー、見本市、大学の入学式や卒業式の会場になったこともあった。
愛知県体育館は歴史的な近代外交史の転換点となった場所でもある。1971年に同所で行われた卓球の世界選手権に、文化大革命後にスポーツの国際舞台から離れていた中国が6年ぶりに参加し、アメリカ選手団と接点が生まれた。アメリカ側からの「中国遠征を希望している」との申し出を受けたことが中国に伝わり、毛沢東主席が決断し急遽招請。アメリカ選手団は名古屋から香港経由で北京に向かうという急転直下の展開となった。
この出来事が突破口になり、3か月後にキッシンジャー米国務長官が極秘訪中。翌年2月にニクソン米大統領が電撃訪中し米中国交正常化を実現した。日本の田中角栄総理大臣も9月に訪中し日中国交正常化を成し遂げた。
その後、中国は国際舞台に復帰し、経済も発展し急速に近代化が進んだ。産業の多くの分野で生産拠点となり電子機器・衣料・玩具等のサプライチェーンの中枢となっている。
愛知県体育館の正面玄関にはこのことを記した「ピンポン外交記念モニュメント」がある。
1964年(昭和39年)完成の愛知県体育館。老朽化が進み、来年のアジア・アジアパラ競技大会を前にその役目を900m北の名城公園内に建てられたIGアリーナにバトンタッチした。
思い出が詰まった愛知県体育館をジャンル別に振り返ることにした。
その① 大相撲名古屋場所
おそらく開館の年からほぼ毎年見に行っていたはずだ。我が家の夏は名古屋場所に行くのが年中行事だった。父親が会社の取引先から升席のチケットをいただいていたからだ。
体育館の前のコンクリート広場に仮設の相撲茶屋が並んでいた。そこでチケットを出すと案内係が席まで連れて行ってくれる。接待でいただくチケットにはお土産が付いている。力士の四股名が入った湯飲みや手ぬぐいが多かった。升席で食べる幕の内弁当は美味かった。
中学生以降は一人で行ったり友人と一緒にイス席で見た。イス席には指定席と自由席があり、いつも自由席券を買った。当時、自由席は大人2000円で小人はなんと100円!大人の20分の1というのは求めやすく魅力的だった。小遣いは月額1000円だったのでありがたかった。
中2の時に級友と行き、花道まで降りて力士を触りに行った。横綱・輪島の体が筋肉でカチカチだった。そのときの感触を今でも思い出す。
そのころ、幕内に大寿山(だいじゅやま)という力士がいた。何年か前の名古屋場所中、栄の地下街を歩いていたら大寿山らしき大柄の人がいた。思い切って「大寿山さんですか?」と尋ねてみた。「そうです」と答えてくれた。引退して30年以上経っていたが、特徴ある眉毛が健在だったので私は自信があった。「大寿山確認」が取れただけで満足だったのだが、「愛知県体育館はどっち方向でしたっけ?」と聞かれた。元大寿山は地下街で道に迷っていたのだった。私は丁寧に行き方をお教えした。全盛期の北の湖に強かったあの大寿山が私に礼を言って、伝えた方向に歩き始めたのを見て大満足したのだった。
アナウンサーになってからは記者席によく行った。砂かぶりと呼ばれる東西の溜席と升席の間に設置された報道各社の取材席だ。奥行き20cmほどの横長のテーブルに各社の社名シールが貼られた指定席。記者クラブ室に置かれた座布団持参で着席する。
相撲取材が必要なわけではなかった。地方局の番組で本場所を取り上げることはない。ただ、「今日の一番」のVTRを会社に届ける必要があった。「今日の一番」とはその日の注目の取り組み。これを収めたVTRを各局が受け取って会社に持ち上がり、キー局に伝送するのだ。夜のスポーツニュースでどの局も同じ取り組みが流れるのはこのためだ。それ以外の取り組みを放送したい場合は別料金を払って購入することになる。その素材を取組後に受け取る役目をスポーツ担当スタッフから譲ってもらっていたというわけだ。
記者席から見る本場所は至福の時間だった。早朝番組や午前中の生放送を担当することが長く続いた私は名古屋場所開催中の午後、よく足を運んだ。
報道受付では協会の世話人をしていた大嶽部屋の友鵬さん(故人)が笑顔で「おう!来たね」と迎えてくれた。「これ、食べてよ」と、ときにはお菓子をいただいた。「ズームイン‼朝!」をよく見てくれていて私を知っていたのだ。急逝されたことを知ったときは本当に驚いた。
記者席では元NHKアナウンサーで相撲ジャーナリストの杉山邦博さんと並んで見ることが多かった。子どもの頃から大相撲の中継で聞いていたあの語り口でいろいろと教わった。ときには実況を披露されることも。食事やカラオケに誘っていただいたこともある。一介の地方局アナがレジェンドアナと何度もお話しできた得難い機会。あんな贅沢はなかった。
今年、IGアリーナで94歳の杉山さんと4年ぶりに再会した。
愛知県体育館ができたのは私が3歳のとき。大横綱・大鵬の全盛期。最後に同所で相撲を見たのは4年前、白鵬が45回目、最後の優勝を全勝で飾る前日の十四日目だった。
昭和40年代前半の子どもの頃、名古屋場所の最中に必ずものすごい夕立になる日があった。それが梅雨明けの合図。その晩から近所の友だちと毎晩楽しい花火が始まるのだ。そんなはっきりした季節の変わり目はもうなくなった。