ハルク・ホーガンは「イチバーン!」の彼方へ - 佐藤啓 公式WEBサイト

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ハルク・ホーガンは「イチバーン!」の彼方へ

2025年8月24日

 毎年のように接するかつての名レスラーたちの訃報。その度に、彼らのファイトを見た記憶が蘇る。

 ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田、ラッシャー木村、ストロング小林、上田馬之助、マイティ井上、剛竜馬、三沢光晴、マサ斎藤、橋本真也、キラー・カーン、北尾光司、グラン浜田、ロッキー羽田、木戸修、大熊元司、サムソン冬木、永源遥、西村修、吉江豊、鶴見五郎・・・。

 アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、ベイダー、ザ・ロードウォリアーズ、クラッシャー・バンバン・ビガロ、テリー・ファンク、ニック・ボックウィンクル、ビル・ロビンソン、ザ・デストロイヤー、ディック・マードック、アドリアン・アドニス、ザ・シーク、サブゥー、スティーブ・ウィリアムス、テリー・ゴディ、ダイナマイト・キッド、ゲーリー・オブライト、そしてハルク・ホーガン。

 最近は日本で活躍した外国人レスラーが亡くなるとその訃報が一般紙にも掲載されることが増えたように思う。ホーガンはプロレスファン以外にも知られた存在だったので、マスコミの扱いも破格だった。NHKの「ニュースウォッチ9」でも詳細に報じられていた。プロレスラーの訃報では「アントニオ猪木死去」以来の時間の割き方だった。

 日本では70年以上前に最初のプロレスブームが起こった。大相撲の関脇だった元力士・力道山の日本でのデビュー戦がスタートしたばかりのテレビで中継され人気を博した。街頭テレビで未知の娯楽・プロレスを見つめる群衆の姿は昭和のメディア史の転換点だ。

 平成以降、何人ものプロレスラーが国会議員や地方議員に選ばれ、ザ・デストロイヤーやタイガー・ジェット・シンといった外国人レスラーが日本政府から表彰を受けた。日本特有の現象と言える。プロレスブームがテレビの普及に大きく関わった歴史が影響しているのだろう。

 ホーガンの訃報は映像でも一般紙の写真でも1983年(昭和58年)6月2日、蔵前国技館での「アントニオ猪木失神」が最もインパクトを与えた試合と紹介されていた。

 あの試合の前日、新日本プロレスは愛知県体育館での興行だった。メインイベントのカードは「アントニオ猪木&前田明(現 前田日明)vs.ハルク・ホーガン&ビッグ・ジョン・スタッド」。ホーガンと前田が対戦していたことは若いファンには新鮮だろう。

 当時、私は大学2年生。後に就職する中京テレビでリポーターのアルバイトをしていて、その伝手で局の方に連れられて、観戦だけでなく控室訪問も許された。一緒に行ったのは面識のないチェリッシュの松崎好孝さんだった。

 猪木やホーガンを控室で見ることは叶わなかったが、木村健悟が治療を受けている様子に見入った。新日本プロレス営業本部長(当時)の新間寿さんの著書にサインしてもらったことも覚えている。テレビ朝日局アナ時代の古舘伊知郎さんが控室に入って来るところも見た。鮮烈に覚えている。

 その後、アナウンサーになって自分がプロレス中継を担当し、愛知県体育館でプロレス実況することになるとは想像もしていなかった。

 翌日の蔵前国技館での試合。初代IWGP王者を決める大一番で「猪木戴冠」という大方の予想を覆してホーガンが王座に就いた。ただ、その事実よりも「猪木失神」という衝撃の結末は、一般紙にも事故扱いで記事になったほど大きく報じられた。

 ただ、その一戦でホーガンはプロレスファン以外にも存在を知られる別格の存在になり、スーパースターへの道を進んでいった。

 ハルク・ホーガンのファイトを何試合生で見ただろうか。初めて見たのは1980年の初来日のときだったと思う。巨体ながら均整の取れた体型だったが地味な選手だった。キラキラした大きくて派手なマント姿で入場していた。マネージャー役の“銀髪のかみつき鬼”フレッド・ブラッシーがホーガンの胸筋を「見ろ、この筋肉を!」とばかりにステッキで指し示すあか抜けない演出で無理やりメインイベンターに仕立て上げていた。

 その後、日本での戦いで実力をつけ、背中に「一番」と白抜きの文字が浮かぶ黒の法被を身に纏い、花道に押し寄せるファンの頭より二つ高いところにある金髪をなびかせて「イチバーン!」と叫んでのリングインで日本での人気を不動のものにした。

 そのころだったと思う。仕事から帰宅した私の父親が、「今日乗ったタクシーの運転手が『お客さん、さっきこの車にハルク・ホーガンが乗ったよ』って興奮していた」と言っていたことがあった。

 また、嘘か誠か来日中、ゲームセンターでパンチ力を計測するマシンのミット部分にホーガンがアックスボンバーをぶちかましたらミットの支柱が折れたという逸話がファンの間に伝わっていた。全米で知られるようになる前に、日本でヒーローになっていたのだ。

 愛知県体育館で数試合観戦したホーガンを、最後に生で見たのは1990年4月13日、東京ドームで開催された「日米レスリングサミット」だった。「レッスルマニア」などの大型興行でスーパースターになっていたホーガンの来日は久しぶりだった。メインイベントは「ハルク・ホーガンvs.スタン・ハンセン」。日本で猪木と闘ったことでトップレスラーに育った2人が東京での大興行を締めくくるという図式。入場曲もコスチュームもWWF(現WWE)仕様のホーガンだったが、ファイトスタイルはかつての日本仕様に戻していた。いい試合だった。

 その試合を見たのは、私が新卒で入った損害保険会社を退職した2週間後。翌月からテレビ局に転職し、アナウンサーとしての生活が始まるという空白の一か月に見た試合だった。大好きなプロレスのビッグマッチを目の当たりにした興奮と東京ドームの大歓声、新しい仕事が始まる高揚感がミックスされた一夜だった。あれからもう35年も経ったんだ。ハルク・ホーガンは「イチバーン!」と指さした天に行ったんだ。