2025年1月8日
「エマニエル夫人」という映画が公開され日本で大ヒットしたのは1974年。もう51年も前の話だ。私が小学6年生の時だった。白人の裸婦が籐の椅子に座り挑発的な表情を浮かべるポスターが印象的だった。
女性の裸に関しては父親が購読していた週刊誌のグラビアページにヌード写真が載っているのを目にする程度。「日活ロマンポルノ」などの「ピンク映画」の存在は知っていたが、当然、子どもだから見には行けない。アダルトビデオなど、まだなかった。
女性の裸は「エッチなもの」という認識。その頃は今で言う「エロティック」を「エッチ」と言っていた。「エッチな本」や「エッチな映画」という具合に。「エッチ」は「変態」の頭文字の「H」から来ていて、大正時代から使われていたスラングだ。だから級友の間でも「エマニエル夫人」のことは「エッチな映画が上映されている」といった言い方をされていた。
当時、高校生も映画館に足を運ぶなどブームになったこのオランダ映画の主演はオランダ人俳優のシルビア・クリステル。彼女の死が報じられたとき、あのポスターを思い出した人は多かったのではないか。6年生の私が「エマニエル夫人」の上映を知ったのは「新聞広告」か「ポスター」だったに違いないのだが、映画館に見に行くことはなかった。まだ「東宝チャンピオンまつり」のゴジラシリーズの方が魅力的だったのだ。
ストーリーはタイのバンコクに赴任した西洋人外交官の妻が当地で「性のよろこび」を知るというもの。原作小説の著者がエマニュエル・アルサンという名前だというこのも、後から知ったことだ。
おそらくこの作品を見たのは高校時代。テレビで深夜に放送されたときだったと思う。「続・エマニエル夫人」も「さよならエマニエル夫人」も。家族が寝静まったあとの隠密視聴だった。
私が1年生の二学期まで通った東大阪市立小阪中学校では、学校行事で全校生徒が近鉄奈良線布施駅近くの映画館に出向いての映画鑑賞会があった。「砂の器」を見た。原作松本清張、監督野村芳太郎、主演は加藤剛という重厚な作品。殺人事件と謎解き、病気への差別や音楽「宿命」。難しそうな題名だったが、小学校にはなかった行事だったので楽しみだった。
映画鑑賞前日、級友が「島田陽子のヌードシーンがあるぞ」と知識をひけらかしたことでその期待はさらに高まった。実際、そのシーンになると客席を埋めた中学生から「オーッ!」という歓声が上がった。それが、初めて映画で見た「際どいシーン」の記憶だ。直後にそのリアクションをバカにした笑いも起きた。今にして思えば学校側も大胆な作品を選択したものだ。ただ、事前の「難しそう」という懸念は杞憂に終わるほど内容は中学生をもスクリーンにくぎ付けにする名画だった。
年明け早々、アメリカのゴールデン・グローブ賞で「SHOGUN 将軍」が作品賞など4冠を獲得したニュースが報じられた記事に、同じ小説を原作とする同名ドラマが45年前に同賞作品賞を受賞した際、島田陽子が主演女優賞を獲得したと書かれていた。
すでに故人となった島田陽子だが、私は彼女の名を目にするたびに布施商店街の映画館での歓声を思い出す。
さて今年、「エマニエル夫人」から半世紀の歳月を超えて映画「エマニュエル」が公開される。オードレイ・デュヴァン監督は前作のリメークではなく舞台を現代に置き換えた作品に仕上げた。主演はノエミ・メルラン。
高級ホテルのサービスや施設を滞在調査する仕事のエマニュエルが怪しい客と接してから性の快楽に目覚めるというストーリーだ。前作は「夫人」であり外交官の妻だったが、今作はステータスの高そうな職業で世界を飛び回る自立した職業人という設定の違いがある。今作の舞台は香港で前作のバンコクと同じアジア。開放的な情事を表現するにはエキゾチックな情景が必要なのだろう。西洋人がアジア、東洋を「神秘的」や「俗世的」と捉える目は半世紀たっても変わっていないのだと感じた。
怪しい場所や怪しい人の怪しい素性。主役の妖艶さを強調するのに香港という場所は効果的だ。漢字の看板、薄汚れたタクシー、雀荘。後半、メルランの白い肌がどんどん際立ってくる。今作の自撮りやスマホでの誘惑は、「籐の椅子」に座ったシルビア・クリステルの視線なのかもしれない。