2025年2月1日
私の住む名古屋市天白(てんぱく)区は、今日、2025年2月1日、誕生して50年。区制50周年を迎えた。この地に住み始めたのは1970年(昭和45年)1月。当時は昭和区天白町。自宅の住所は「大字島田字黒石」だった。当時、小学1年生だったが、閑静な住宅街だった瑞穂区から引っ越してきたので、まだ宅地造成途上で住所表記も長いこの地はこれからのところなんだと感じていた。
昭和区だった時代、集合住宅の多い住宅地だったが、我が家から歩いてすぐの今の緑区桃山は普通の里山だった。小学4年生頃まで、友人とよく山の中に遊びに行った。ちょっとした「冒険」が面白い年ごろだ。
一度、山の中で便意を催し、みんなに「見ないで」と言って用を足したがティッシュがなく、友だちが持っていたチョコレートの銀紙をもらって尻を拭くという情けない体験をしたことがあった。
野犬もいてスリルがあった。山の中には池がありカメやメダカ、ドジョウもいた。タガメを見たのもその池だった。
「天白」という地名は河口付近に「天白神」を祭った天白社があった天白川から取った。1906年(明治39年)愛知郡天白村になり、名古屋市との境目は私の母校、愛知県立昭和高校だった。運動場が名古屋市の端。当時、野球部の練習でファウルを打つと「市内に飛ばせ」とヤジられたいう逸話を高校時代に聞いたことがある。一塁側も三塁側も天白村方向だったからだ。
1955年(昭和30年)に名古屋市に併合され昭和区天白町になった。そして1975年(昭和50年)2月に昭和区の東側が分区して天白区が誕生。同日、主に千種区から分区した名東区と共に名古屋市16区では一番若い区になる。
誕生したときの天白区の人口は約8万7千人。今は16万2千人。私が1年生の3学期から4年生まで通った小学校はマンモス校で3年生の時(1971年)私の学年は11組まであり、運動会は午前と午後の分割開催だった。翌年、もう一つの小学校を建てて学区を分割し、適正な児童数にした。その後、学区の子どもの人数はどんどん減り、去年、52年前に分離した2つの小学校が統合されるという事態に陥った。天白区全体の人口も近年は減少傾向だ。
天白区は由緒ある川や社からの命名で土地の歴史を重んじていて納得だ。名東区は「名古屋の東部」ということだろう。文献を見たわけではないがそうに違いない。半世紀も経ち耳に慣れたが「東区」もあるし安直だなぁと思う。「猪高区」の方が良かったのではないか。
ついでに「緑区」は横浜市や千葉市、さいたま市にもある。名古屋市緑区は東海道の鳴海宿があって全国的にも「鳴海」の名は知られている。「鳴海区」で良かったのではないかといまさらながら思うのだ。
天白区に縁のある有名人に、私と同じ小学校・中学校に通っていた元プロ野球選手の工藤公康さんや紀藤真琴さんがいる。去年現役を引退し、今年、ドラゴンズのコーチとなった田島慎二さん、プロレスラーの杉浦貴選手や落語家の瀧川鯉斗さんも天白だ。天白区にある学校出身者では、フィギュアスケートの伊藤みどりさん、恩田美栄さん、浅田舞さん。サッカーの菅原由勢選手や藤井陽也選手、ソフトボールの後藤希友投手、俳優の滝藤賢一さんらが名を連ねる。ラッパーの呂布カルマさんは天白在住とのことだ。
天白に住んで通算52年。いつまでここに住むのだろう。生まれてから7歳までは瑞穂区。そのあとは天白。途中、3年間東大阪市にいたが、中学の時に戻ってきて高校は瑞穂区、大学は昭和区。長く務めた中京テレビも昭和区にあった社屋に26年通った。ほぼずっとこの界隈で過ごしてきたことになる。今、住んでいる天白区のマンションに、もう33年もいる。代り映えのない暮らし。死んだら確実に天白区の八事斎場で焼かれる。あまりにも狭いエリアの一生だ。