2025年9月11日
今回は「愛知県体育館」ボクシング編。
私はこれまで世界タイトルマッチを86試合観戦した。その内の10試合は実況アナウンサーとして放送席にいた。大相撲やプロレスに比べると観客としてボクシングを見るようになったのは遅く、社会人になってからだ。ボクシングの初観戦が世界戦だった。1988年9月4日、名古屋市総合体育館(現 日本ガイシホール)で行われたWBAスーパーフライ級の「ヒルベルト・ローマン(メキシコ)vs.畑中清詞(松田)」。ローマンのローブローに畑中が苦悶し、回復のための時間が設けられた記憶がある。この試合で敗れた畑中は2度目の挑戦で名古屋のジムから初の世界王者になった。会場は名古屋国際展示場だった。今は「ポートメッセなごや」という広大なイベント施設群になっているが、当時は円形のドーム型の建物だった。
愛知県体育館で初めて見た世界戦は畑中のジムの後輩・薬師寺保栄(松田)が王者になった1993年12月23日のWBCバンタム級の辺丁一(韓国)戦。なかなか攻勢の取れない薬師寺をヤキモキしながら2階席から見ていた。薬師寺は判定でタイトル奪取。「負けたのでは」と思った観客が多く、判定の発表時は「勝ったんだ?!」という感じのリアクションだった。辺はアマ時代、ソウル五輪の決勝で判定負けに腹を立てた陣営が会場の照明を消して大騒ぎ。大きな問題になった一件から5年、愛知県体育館でも何か起きるのではと案じたが杞憂だった。薬師寺は同所で行われた2度目の防衛戦で辺をTKOで破り返り討ち。王者としての貫禄が感じられるようになっていた。
辰吉丈一郎との世紀の決戦で全国区になった薬師寺がタイトルを失ったのも愛知県体育館。1995年7月30日のウェイン・マッカラー(アイルランド)との試合は接戦だったが手数が止まらない挑戦者に判定負け。このとき、試合前恒例の国歌演奏がなかった。正式な国歌がなかったアイルランドはこの年のラグビーW杯に合わせて国歌を作ったが、長く国内でテロや武装闘争が続くなど国情は不安定だった。遠く離れた日本での世界戦でも先鋭的な勢力を刺激しないように配慮されたようで、「君が代」も流れなかった。
愛知県体育館最初の世界戦は開館した1965年の5月18日に行われたバンタム級の「エデル・ジョフレ(ブラジル)vs.ファイティング原田(笹崎)」。無敗の強豪王者に判定勝ちし日本人初の2階級制覇を名古屋で達成した。
1994年から2003年まで、中京テレビはボクシング中継を行っていた。緑ジムから世界王者になった飯田覚士や戸髙秀樹らの試合を中心に、世界戦も12試合中継している。私は愛知県体育館で世界戦を5試合実況した。
その時代に自分のいた会社とボクシングの関わりの歴史を知ることになった。入社する17年前の1973年に、愛知県体育館でWBCライト級王者・ガッツ石松(ヨネクラ)が引き分け防衛した初防衛戦が「開局5周年記念試合」として開催されていた。この試合の記憶はない。
その後、中京テレビがボクシング中継を始めたのは、日本テレビの人気バラエティ番組「天才!たけしの元気が出るテレビ」のプロボクサーを養成する企画コーナー・「ボクシング予備校」で人気者になった飯田覚士と松島二郎が共にプロになり、日本タイトルをかけて王座決定戦を行うことになったことがきっかけだった。
その試合を私が実況することになり、事前取材で松島の所属する東京のヨネクラジムに初めて行ったときのこと。いかにも老舗という感じの古びたジムの壁に歴代所属選手の興行ポスターがびっしりと貼られていた。その中に「中京テレビ開局5周年記念」と書かれた昔のポスターに目が留まった。それが、「ガッツ石松vs.チュリー・ピネダ(メキシコ)」戦だった。今はYouTubeでいろいろな過去映像が見られるが、この試合は石松が引き分けで初防衛に成功。両者が終盤まで打ち合う好勝負だった。
さらに在職中、先輩社員からある映像を見せてもらった。1971年10月25日、愛知県体育館で行われた王者・ルーベン・オリバレス(メキシコ)に金沢和良(アベ)が挑戦したバンタム級の世界戦だった。この試合は東京12チャンネル(現テレビ東京)で放送された。中京テレビは1969年の開局から4年間はNET(現 テレビ朝日)の番組を中心に放送していた。加えて日本テレビや東京12チャンネルが制作する番組も編成していたので、この中継を制作協力していたのだ。
強豪オリバレスに金沢は大健闘。スリリングな戦いを展開したが最終15RにKOされた。この一戦はその年の年間最高試合に選出されている。
また、今なお破られていない同一世界タイトル連続防衛13回の日本記録を持つ元WBAライトフライ級王者・具志堅用高(協栄)。そのビクトリーロードの途中にも愛知県体育館での試合がある。1978年1月29日のアナセト・バルガス(フィリピン)戦だ。私は高校受験を控えた中学3年生。クラスメートの父親が新聞記者でその一戦を取材すると聞いてうらやましく思ったものだ。当然、勉強もせずテレビ観戦した。具志堅は14RにKOで勝ち4度目の防衛に成功した。
愛知県にあるボクシングジムからこれまで畑中・薬師寺・飯田・戸髙・田中恒成(畑中)・矢吹正道(緑)と6人の世界王者が誕生した。畑中が初挑戦する10年前の1978年、愛知県体育館でWBAスーパーフェザー級王者のサムエル・セラノ(プエルトリコ)に丸木孝雄(常滑)が挑むが判定負け。これが地元愛知から世界への扉を開こうとした最初のチャレンジだった。
私が実況した愛知県体育館での世界戦5試合はどれも印象深い。大相撲やプロレスで馴染んでいた場所から全国に生中継できるやりがいのある仕事だった。
愛知県体育館で実況した初めての世界戦は1997年4月29日のWBAスーパーフライ級タイトルマッチ「ヨックタイ・シスオー(タイ)vs.飯田覚士」戦。2度目の世界挑戦だった飯田が引き分けでタイトルを獲れなかった試合だ。ジャッジの1人は飯田を支持、2人がドロー。本当に惜しかった。ボクシングはジャッジ2人以上に支持されないと勝利とならない。
余談だが、この日の夜、テレビ朝日の「ニュースステーション」が、オープニングでテーマ曲に乗せて飯田の奮闘する姿を伝えた。他局の看板番組に自分の実況音声まで使われていたので驚くと同時にうれしかったものだ。
緑ジムの松尾敏郎会長は、この日、愛知県体育館に献血車を呼び、献血に協力したファンには「5000円の2階席券プレゼント」という企画を実施。とてもいい社会貢献活動だ。後に野球中継後の食事会の席で日本テレビのアナウンサーが「名古屋のボクシングファンはおとなしい」と言ったので私が献血活動を持ち出し、「それは、血を抜いてから入場する人が結構いるから」と返したところ山本浩二さんと中畑清さんに大ウケした。
この試合はヨックタイの母国・タイでも生中継された。再戦を前にタイに取材に行った際、ボクシング会場で関係者から「お前はボクシングのアナウンサーだろ」と言われたことで、現地で放送されたことを実感した。
こんなこともあった。バンコクで入った食堂で、ウエイトレスの若い娘さんたちが私を遠くから指さして笑うのだ。不思議に思い通訳に聞くと、「あなたを『一休さんだ!』と言っている」とのこと。当時、仏教国のタイでは日本のアニメ「一休さん」がテレビで大人気だったのだ。私が両方の人差し指を側頭部に向け一休さんの思考ポーズをすると笑いが起きた。
8か月後の12月23日、両者は愛知県体育館で再び拳を交えた。リマッチは1Rに挑戦者の飯田がダウンを奪い攻勢に。ボクシング実況の放送席はリングにピタリとくっ付いている。あらゆるスポーツ中継で現場に最も近いところでしゃべる競技だ。ダウンする王者の背中が迫って来る方向に放送席があったので当たったパンチが何だったのかは見えなかった。倒れてくる王者の肩越しに見えた左拳を引く飯田の動きを見て「ひだりぃーッ!ストレート」と叫んだ。35年間この仕事をしているが、最も忘れられない瞬間だ。終盤、王者も反撃したが今度は3-0の判定で飯田が新王者になった。新王者誕生のコールを聞いたら不覚にも放送中に涙が出そうになった。解説の浜田剛史さんが「しっかりしろ」とばかりに背中をポンと叩いてくれた。
名古屋のジムから3人目の世界王者になった飯田の初防衛戦は3階級制覇を目指すベテランの井岡弘樹(グリーンツダ)が挑戦者だった。1998年4月29日。日本人同士の世界戦はここ20年程花盛りだが、当時はまだ希少で9回目。ピークは過ぎていた井岡だったが序盤から意地を見せ流血の激闘になった。際どい判定で飯田が初防衛に成功したが、判定に不服の関係者がリング上で小競り合いし後味の悪い終わり方だった。
この日、ナゴヤドームで中日巨人戦が行われたが、長嶋茂雄監督(当時)は自軍の練習が始まってもベンチ裏でテレビの「飯田井岡戦」に夢中だったという。判定を聞いた後、報道陣の待つベンチに出てきて「2人ともナイスファイトでしたねぇ~」と興奮気味だったそうだ。
その飯田が王座から陥落したのも1998年12月23日の愛知県体育館だった。試合途中に左肩を脱臼するアクシデントに見舞われる不運もあって中盤から防戦一方。3度目の防衛に失敗し現役生活を終えた。しかし、脱臼した次のラウンドに見せた飯田の捨て身の接近戦は王者のプライドを見せた名場面だった。数々しゃべった彼の試合で最も熱くなったのがあのときだった。館内の興奮もピークで私の腰も浮いた。
緑ジムから2人目の世界王者・戸髙秀樹は、ジムの先輩・飯田からタイトルを奪ったロハスを下して戴冠。好戦的なファイターだった。5試合目の世界戦が愛知県体育館だった。私は戸髙が試合前に合宿するロサンゼルスにも取材に行き実況に備えた。2度の防衛戦を完勝した戸髙だったが、2000年10月9日、3度目の防衛に失敗した。レオ・ガメス(ベネズエラ)に強烈なアッパーを浴び続けアゴを破壊され前のめりに倒れた。壮絶な試合だった。
試合前、番組の冠スポンサーについてくれた缶コーヒーを放送席にディスプレイしたが、見学に来た何も知らない新人アナウンサーが「実況に邪魔なのでは」と私に気を使い、放送直前に撤去しようとした。慎重に位置を決めて設置した技術スタッフを激高させた。危うくスポンサーから大目玉を食うところだった。
その後、長いブランクを経てカムバックした戸髙は宿敵・ガメスに判定勝ちしWBAバンタム級暫例王者になり二階級制覇。執念と根性の男だった。
世界戦当日、会場で外国人のレフェリーやジャッジを見ると、「世界戦だ」と実感して気分が盛り上がったもの。名古屋城の構内にあって重厚な佇まいの愛知県体育館は世界タイトルマッチという国際試合が似合った。
愛知県体育館以外にも過去に名古屋市内で世界戦が行われた会場は前述の名古屋市総合体育館、名古屋市稲永スポーツセンター、名古屋国際会議場、愛知県武道館、武田テバオーシャンアリーナ(現 名古屋金城ふ頭アリーナ)、旧名古屋国際展示場がある。エリアを愛知県内に広げると、愛知県国際展示場、パークアリーナ小牧が加わる。ただ、こじんまりした会場での開催が増え、スケールダウンが否めない。
9月14日、IGアリーナで行われる井上尚弥の主要4団体スーパーバンタム級王座防衛戦。飯田覚士さんから「WOWOWとLeminoがコラボした有料会員向け放送の解説をします」と連絡があった。収容人員17000人の立派な会場ができたことで名古屋が新たなビッグマッチの拠点となればうれしい。